目の端から滲んで、傷から流れ出た血にまぎれて伝ったのは涙だったけれど、それは生理的なもので、感情からのもじゃない。

 

咬み殺してやりたい

 

まるで音の無い映画を見ているようだ。

男の腕や足が振り下ろされる度に自分の躰から鈍い音が上がるけれど、それは音だけで痛みは感じなかった。

いや、痛みは感じてるのかもしれない。

その証拠に身体はきちんと擦れた悲鳴を上げ、反射的に震え、これ以上の苦痛から逃れようと縮こまろうとする。

それでも、不思議とその痛みが脳にまで届くことはないのだ。

「泣いていないんですね」

穏やかな声が降って来た。

整った、優しげな顔の男が、指先で雲雀の瞼の上をそっとなぞって行く。

ただされるがままに、殴られて蹴られて、男の玩具だった躰に力なんてとうになくて、雲雀は投げ捨てられたまま瞳を閉じてぐったりと横たわっていた。

暴力的な接触とは違い、何故かやわやわと眼球の上を滑っていく男の指先の感触はやけに明瞭で現実的。

膝をついて雲雀の顔を覗き込んでいた男は、酷く愉しげな様子だった。

「悔しくないですか?ねぇ?」

咽喉を鳴らして、腫れ上がって熱を帯びた頬を宝物にでもする様にゆっくりと包む。

「食物連鎖の頂点にいたはずの貴方が、抵抗も出来ずにぼろぼろにされて、こんな無様な姿を晒しているんです」

口付けするように顔を寄せて、甘やかな声で恋人への睦言のように男は囁く。

「屈辱でしょう?悔しいでしょう?苛立たしいでしょう?惨めでしょう?もどかしいでしょう?ねぇ?」

軟らかに唇をついばんで、拡がる鉄錆た味に極上のワインでも口にしたかのように目を細めた。

「泣いてくださいよ」

恋人へ愛の言葉を強請る男のように、横たわる雲雀にゆるやかに体重をかけて、肌を触れ合わせる。

「あなたの涙が見たいんです」

直接の接触を阻む衣類に顔を顰めて、もどかしげに男は最愛の者へ懇願した。

「…なんで………?」

切れて乾き始めた引き吊る唇をゆっくりと動かせば、男は笑って答えた。

「あなたの涙は、きっととても綺麗だ」

これ以上のものは無いといいたげに、男は愛情を込めて言葉を紡ぐ。

「あなたはとても綺麗でした。ねぇ、獲物の血を浴びて、瞳を潤ませていたあなたはとても綺麗だったんです。あんな汚い生物の血でも綺麗だったんですから、綺麗なあなた自身の血で飾ったら、もっと綺麗だろうと思ったんです」

肌蹴たシャツの合わせ目に指をもぐりこませて、拡がる青い情痕を数えるように撫ぜていく。

「僕の想像通り、今の貴方はとても綺麗だ」

男の指が触れて行くたびに、麻痺していた躰が反応を返して、雲雀に鈍い痛みを届けてくる。

「ねぇ。だからもっと見せてください」

そっと雲雀の唇に触れて囁いた男のそれが、顎を伝い、首筋を辿っていく。

「屈辱に泣いてください。惨めな自分に泣いてください。貴方の怒りに、もどかしさに、やるせなさに流れる貴方の感情の欠片はきっともっとずっと美しい」

肩口に顔を埋めて、発熱する躰にピッタリと折り重なって、男は甘える。

胸骨が折れるか、皹が入るかした雲雀の躰に、それは甘い苦痛だったけれど。

「貴方の躰に流れるものを、貴方の心を見せてください」

恋したように、男は愛して欲しいと言うように雲雀に望む。

傷つけて墜とした雲雀に縋る男の頭髪を目に捕えながら、雲雀は熱い吐息をもらした。

熱を持った全身が、ずくずくと鈍く疼いて痛みを訴え始めている。

(馬鹿らしい)

休み無く痛みを与えられていた躰が、途絶えた凶暴な力に安堵して悲鳴をあげているのだ。

(僕はとっくに泣いているよ)

上にいる男の所為で肺は圧迫されて、呼吸は苦しくてしかたがない。

苦痛に、涙が滲みそうだ。

滲む視界で見る世界には、満開の桜が咲き誇っている。

男の向こうに広がるそれを忌々しいと思うけれども、その美しさに賞賛もする。

もともと好きだったそれを、今だって嫌いになったわけじゃない。

(君の事は、嫌いだけどね)

静かに雲雀の鼓動を聞いて甘える男は、またやがてその牙を剥いて雲雀を引き裂くだろう。

束の間であるだろうこの休憩に、苦しい息を吐き出して、雲雀は馬鹿馬鹿しいと瞼を閉じたけれど、男の温度がやけに気に障った。

唇に当たる男の黒髪に擽ったい。

少しでも身体を休めて、この男を噛み殺すために体力の回復をはかりたいのに。

(本当に、嫌い)

口の中で悪態をついて、忌々しい体温を振り払うかのよう雲雀はにきつく瞳を閉じた。

 

生理的に流れる涙なら幾らでも上げる。

でも、心で流す涙なんて、一粒もやらない。

 

text-s