帰路

 

乱雑に並べられた雑誌の中で、たまたま目にとまった物を引き抜いて、適当に開いたページに目を通す。目ぼしい情報も興味を惹かれるものも無いが時間つぶしにはなる。だから骸はコンビニに入ると大抵雑誌コーナーに向かう。犬や千種の食料買出し(主に菓子類)に付き合って入っただけで、骸自身には用事が無いからだ。

必要な日用品はほぼ全て家政婦が買いそろえるし、骸も恭弥も間食を好まないので、24時間営業だろうとどうしたって足は遠のいてしまう。切れたシャープペンの芯、ノートを買いに来る程度。それだって、恭弥は購買部で済ませる。忌々しい事に、恭弥は学校が好きだ。子供の頃、行きたくても行けなかったことが関係しているのだろう。授業はサボるが、学校そのものを休んだ事は意外なほど少ない。むしろ体調さえ許すのなら、皆勤賞だって取れるだろう。骸は、学校というものが嫌いだったが。むしろ憎んでいると言っても過言では無い。

いつだって、骸から恭弥を奪っていく場所だから。

幼い頃、小学校に上がった兄が骸を置いて出かけていくのを玄関先から見送ったのは苦い思い出だ。時々、夢に見るくらいには。

保育園や幼稚園には通わず、家でずっと二人で(勿論母はいた)過ごしていたのに、兄の入学で突然一人にされた骸は、最初なぜ恭弥がいなくなったのか分からず、泣きながら家中探し回ったこともある。

小さな骸の就寝前のお願い事は、明日は恭弥が熱を出して、学校を休みますようにという、笑ってしまうほど些やかな望みだった。もちろん、具合を悪くして苦しそうな恭弥を見るのは嫌だったが、利己的だと言われようと、一緒にいられないよりはずっと良かったのだ。

「骸さん、明日映画いきませんかー?」

情報を取り込まず、ただページをめくっていく骸の隣で雑誌をあさっていた犬が、開いたページを見せてくる。

覗き込めば、上映している時間帯や、近日始まる映画がラインナップされている。

「どれです?」

「これれす、これ」

尖った爪先で示されたのは、児童書が原作の映画だ。人気らしく、骸もときどきニュース番組で取り上げられているのを見たことがある。

「見たいんですか?」

あまり心引かれる内容では無いが、大きく頷いて見上げてくる目に、行っても構わないかという気分になる。

「いいですよ。恭弥が暇じゃなかったら」

「やっぱりれすか…」

喜色を浮かべ、しかし続いた言葉にしょんぼりと項垂れた犬をかわいそうだとは思うが、これはしかたがない事だ。優先順位は、とうの昔から決まっているのだ。

「すみません」

苦笑して沈み込んだ犬の頭を撫でようとして、骸は硝子の向こうに兄を見つけた。見間違えるはずもないその姿に、手にしていた雑誌を元の棚にぞんざいに押し込む。

「骸さん?」

調度会計を済ませてやってきた千種が、急ぐ骸を訝しげに呼んだ。

「先に帰りますね」

声を掛ける暇すら惜しいと言わんばかりに歩き出しながら、後で連絡しますと犬に言って、骸は千種の横をすり抜けて足早に店内を出て行ってしまった。

その背を見送り、ああ、いつものあれかと、犬と千種は同時に溜息を吐いた。

顔をドアから通りへと巡らせれば案の定、黒い学生服を纏った人の隣に、骸が並ぶ姿が見える。

哀愁を漂わせてそれを見る犬に、千種はまた一つ溜息をついた。

「なんの話してたの?」

「柿ぴ〜」

顔をくしゃくしゃにしてベタりと張り付く犬を、うっとおしいと思う。だからと言って邪険にはできず、千種は無言で頭を撫でてやる。

「う〜…骸さん、日曜だし映画誘ったんらけど…」

「…まぁ、いつものことだけど。恭弥さんの予定しだいだよね…」

ぐずぐずと鼻を啜る犬と一緒に、通りに眼をやれば、傍から見て居ると恋人同士のような兄弟の姿が見える。

「恭弥さんが委員会で家にいないといいね…」

骸と犬が映画に行くのなら、当然その中に自分も入っている。千種は儚い望みを託して、遠ざかっていく兄弟を見送った。

 

 

白々しいほどの蛍光灯の光から離れて、骸は薄墨に染まる街並みに踏み入る。

「恭弥!」

呼び止められて、その中を歩いていた恭弥は足を止めてくるりと振り返った。呼んだ相手は背後のコンビニで逆光になって顔の判別はつかなかったが、誰なのかなんて声でわかる。

第一、自分を名前で呼ぶのなんて、一人しかいない。

「骸」

それに、弟はさらに足を速めた。

待っている恭弥に、ほぼ走るのと同じ速度で歩いて追いついた骸は、そっと眉を顰めた。

息も白く曇る寒さの中、恭弥は防寒着は何一つ着用せず、いつもの学ラン姿だ。

黒い詰襟から出ている筋の浮いた首や、袖からのぞく手は酷く冷たそうに青褪めている。

「出てくるとき、着ていたコートとかはどうしたんですか?」

話しながらも、骸は自分のコートのボタンに手を掛けて素早く外していく。

確かに今朝、一緒に家を出たとき、恭弥は白いダッフルコートを着ていた筈だ。もちろん、マフラーも手袋もしていた。

「汚れたから捨ててきた」

「汚れても何でも、着ててください」

どうせ喧嘩をして、相手の帰り血がかかったのだろう。確かに白に赤い血は目立つが、風邪を引くよりはずっといいはずだというのに。

当然のことのように言った恭弥に溜息をついて、骸は自分よりも幾分か細い兄の身体に脱いだコートを着せかけ、風が入らないよう前を首まできっちりと止める。これなら、マフラーまで渡す必要は無い。別にあげたって骸はいっこうにかまわないのだが、流石に其処までしてしまえば恭弥も固辞するだろう。だからマフラーは諦めて、骸は片方だけ外した手袋を恭弥の手をとって、氷のようなその手にはめてやる。

「僕も寒いので、片手で我慢してくださいね」

「ん」

大人しく頷いて、恭弥は骸の温もりの残る手袋に包まれた手を握ったり開いたりする。実は悴んでいて、感覚が殆どなかったのだ。子供のような仕草をする恭弥の残ったほうの手と自身のそれを繋いで、骸はそのまま着せ掛けたコートのポケットの中へつっこんだ。

兄弟というには行き過ぎだが、彼等にとっていたって普通の行動だ。

そのまま並んで歩き出して、家路を辿る。

すっかり日が沈んでしまっていて、ところどころに街灯が立っていなければ真暗で何も見えないだろう。

ほぼ同じ位置にある、恭弥の些か色を失った唇から吐き出される白い息。一緒にポケットに入った手も、まだ冷たい。その手を温めようと、強く握りながら、ふと骸は先ほどの犬との約束を思い出す。

「そういえば、明日は家にいますか?」

日曜だろうとなんだろうと、恭弥は仕事が残っていれば学校に通う。基本的に、家に仕事を持ち帰るということはしない人だ。持ち帰ってくれて、いっこうに構わないのだが。学校では接触をあまり持たないようにと恭弥から言い渡されている骸は、風紀委員にも入れないし、休み時間を一緒に過ごす事もできない。

年を追うごとに、一緒にいられる時間は削られていく。

恭弥との時間は、だからとても貴重だった。

「そのつもり」

恭弥のこたえに、犬たちと映画に行くという選択肢は骸の中から抹消された。明日の休みは、恭弥といられるのだ。

顔を綻ばせて、骸はほんの少しばかり足を速めた。

「なら、一緒にビデオでも見ましょうか」

「いいよ。特に見たいのないから、適当に借りてきて」

「はい」

人ごみが嫌いな恭弥は、レンタルショップも嫌い。借りに行くのも嫌。だから、当然骸が一人で借りてきて、一人で帰しにいく。

恭弥は家でごろごろしているだけだ。

普通の兄弟だったら齟齬が起こりそうなものだが、恭弥が一番で、恭弥が人と関わるのが好きでは無い骸だから、それに、不満は無い。

恭弥の好みも、熟知している。

夕食を食べたあと、恭弥がお風呂にでも入っている間に借りてくればいい。近所にあるから、それほど時間もかからずに帰ってこれる。

一日中、二人で過ごそう。

暑いのも寒いのも嫌いな恭弥は、暖をとるのに調度いいと、抱き締める骸を厭わないだろう。

犬が行こうと誘った映画の、前作も借りてこよう。

恭弥はなんでもこんなの借りてきたのとか、文句を言いながらも見るだろうし、たぶんきっと好きだ。

小さな子供のように胸を弾ませて、骸は幼い頃となにひとつ変わらずに、恭弥と手を繋いで、変わらぬ家路を辿った。