。  〇。      

〇 

に  

鯉  

          

。  〇。          

 

 

 

 

施設奥に位置する主人の私室近くで、どこからともなく立ちこめた霧が急激に凝り固まって像を結ぶ。

人型を取ったそれが、回廊に落ちた灯籠の影を踏んだ。

不可思議なことに、コツリと固い床と靴底がぶつかる音が鳴る。

精巧過ぎる故の錯覚ではない。ただの幻像かと思われた彼は、この場に実存しているのだ。

こつり、こつりと棚引く雲に飛翔する鳥も壮麗な欄干が等間隔に取り付けられた天井に靴音を響かせ、仄暗い橙をした灯火に伸びた影を連れて移動するその姿は、壁に設けられた円窓のてらりと潤んだ漆の塗り格子にも映り過ぎていく。

突如として出現した彼が会いに来た相手の祖国独特の情緒に溢れた簡素でいながら美々しい建築。配された品々の緻密な意匠は丁寧な手仕事によるものだと窺えるこの建物は。朱や橙といった彩色が何とも鮮やかで、通路と呼ぶのも憚られる様相だった。

敢えて光量を落とし飾り灯籠を用いているのが、夜闇にぽつりぽつりと浮かぶ提灯のようで無人の夜祭りを連想させる。高揚した民草が集まり、熱気に包まれた夜店の連なりを練り歩くような祭りではなく、静謐と荘厳さを持った神事の場。だというのに、匂い立つように艶めかしいのはどうしたことか。

まるで主そのものだと、雲雀が所有する施設を訪れるたびに称賛を惜しまない骸だが、反面、侮蔑ともつかない皮肉が浮かんでくるのも堪えようがなかった。

戦闘を念頭に置いた、常に身を置く住居でもない組織の支部。襲撃を受けた場合は放棄する可能性も出てくる言わば消耗品に、他者へのパフォーマンスでもなしに此処まで贅を凝らす必要も感性も骸には理解できない。

彼が幼少期を送ったのは、狂った科学者の恐怖に怯えて過ごした無機室な研究室、下町の廃墟等といった劣悪な環境だった。さらにカウントするのも悩むところだが、五体五感を封じられモルモット扱いまがいで水牢に今現在も封じられている(すでに生活どうこうの話ではない)。

骸にとっては潜伏場所など雨風が凌げれば休息を取るにしても何をするにしても充分事足りた。

まあ、そんな世間一般的とはいえない骸の育成環境は例外としても、少なくと日本における一般水準で育った雲雀恭弥が廃ビルや家屋外での野宿で休めないなんて噂は聞いたこもない。

というか、むしろ体力を回復させようと何処でもさっさと睡眠に入っている。それはもういっそ共に行動している骸等が呆れるほどの素早さであり、其処には躊躇いももちろんのこと、同行者に対する配慮も遠慮も存在しない。

まあ、そんなものを雲雀に求めても無駄であるのは誰もが先刻承知しているのだが。

彼は彼の望むように、したいように行動するだけだ。

しかし、雲雀が行動拠点とするための各地のアジトを設立するに当たって、自身で何か指示を出したとかは聞かないので、十中八九この有様はあの側近の仕業であろうが。これを当然と受け入れている主人もまあ、なんとも剛毅である。

といっても。守銭奴ではあるが、それはあくまで使用するためであって無闇やたらと溜め込む手合いでは無いので、必要とあらば湯水の如く金銭をばら撒く。

潤沢に与えられる嗜好品を日常としてきただろう雲雀には、滞在期間が束の間であっても生活環境に対するこれらの装飾は毛布や歯ブラシといった日用品と同じ扱いなのかもしれない。無ければないでどうにでもなるが、あれば言うことはない、といった物なのだ。きっと。

つまり彼にとっては、必要経費内と言うことだろう。

「育ちの違い、というんでしょうかね」

感慨深げに一人ごちた骸は、常人であれば感覚が狂うほどに変化が見られない廊下に幾つかある角のひとつを曲がった。

敢えてそうしている疑いのある設えに術師である骸が惑わされることはないが、延々と続く完璧に同型の装飾には、幻想の世界に迷い込んだような気にさせる。

それがようやく途切れたのは、回廊の突き当たり。襖と高さが膝くらいの式台が張り出している目的の部屋の前だった。

少しばかり酩酊したような頭で靴を脱ぎ、板間へ上がってくるりと振り返った骸は、脱いだ靴をきっちりと揃えてから右手壁際に置かれた棚に律儀に仕舞う。別段、放っておいた所で雲雀の部下の誰かしらが片付けるだろうが、礼儀にうるさい雲雀に気に入られたいという健気な男心。こういう地道な努力が関係維持には大切なのだと彼は身に染みている。

不作法をして雲雀に鉄拳制裁を加えられる度に、傍に控えている強面の男から作法をレクチャーされたことは数知れない。忌々しい男ではあるが、世話になっていることを認めないわけにも行かないのが骸の哀しい現状だ。おかげで、今ではどこの有名旅館の仲居に入っても問題ないスキルを身につけた。

「僕って健気ですよね。そう思いません?」

手を引き手に添え、襖を大きくスライドさせて敷居を跨いだ骸の肯定を求める問いは、広大な座敷に吸われて大分ボリュームを落としたが、中庭に出ていた相手まで確かに届いた。

「不法侵入」

墨染めの着物の袂に腕を差し込んで、人の手が加わりながらもどこか自然味を残す庭園に佇み、足下を眺めていた雲雀が振り向きもせず淡泊な非難を寄越す。

それでも彼愛用の武器が飛来してこないのを了承の証と、骸は雲雀のいる庭先に出るため中座敷を渡り、奥座敷に面した縁側に随分と歩数を数えてから到達した。

(何でこんなに無駄に広いんでしょう)

座敷はがらんとして、奥の間の上座に文机とまだ微かに白い湯気が上がる茶器を乗せた盆が置かれているだけで、後は通信機器ひとつ、箪笥ひとつとして見当たらない。襖に仕切られた中座敷・奥座敷からなる二間とはいえ、異常ともいえるこの広さは空白美を基準とする文化に生きる日本国民だとしても、庶民では落ち着かないのではないだろうか。

確実に、坐す人間に格式を求める空間だ。

緑豊かな造園にしろ、在処を地下と考えると、酔狂を通り越してこの施設全体が一種狂気の沙汰と言えなくもない。

其処を極自然に従え、歪み一筋と見せず己の所有物としている雲雀は何かを超越している。

(僕も大概人間として異常しいとは思いますけど、恭弥も相当にあれですね)

「失礼なこと考えるな」

「おわかりですか?」

「それだけ垂れ流してたらね」

顔を上げて振り返った雲雀が嫌そうに眉を顰めている。相性が良いのか、解ける気配のない契約に接続を長年繰り返した所為と、骸が雲雀に対して垣根を設けていないのと相まって、しばしば骸や凪の見ている情景や感情が雲雀に波及することがある。

前触れ無く割り込んでくるそれらを決して愉快と感じてない雲雀と違い、不都合があっても忌避するそぶりすらない骸は至極愉しげだ。

庇下の沓脱石には下駄ひとつないが、躊躇う素振りもなく骸は砂土に降りると白いソックスを茶色くしながら雲雀の隣に来てしゃがみ込む。

先程の雲雀がしていたように池を覗き込んだ骸の色違いの虹彩を、優雅に鯉が泳ぐ。

その斑も見事な魚が悠然と水の中を行き交い、尾を左右にゆっくりと振る様は舞のようで、観賞魚に相応しい美麗さである。

「鯉って、金魚と違って美味しいんでしょうか」

同じ観賞魚として日本人に好まれる魚名を上げた男は、そんな筈はないのに水飴のようにもったりと粘度の高そうな水面にちゃぷりと指先を浸す。

飼い慣らされた魚等は、物騒な言葉も知らぬげに餌をくれるものとばかりにその節くれ立った長い指に一斉に群がった。彼等は愚かしいほど水面に顔を突き出し、ぱくぱくと水を呑みながら我こそがと間の抜けな顔に似合わぬ獰猛さを見せる。

骸はぬらりとした鱗に触れながら、食いちぎられる惨事も往々にしてある鯉の口に、指を呑み込ませては引き抜き、この鯉、あの鯉、また別の鯉と温んだ水中で戯れを繰り返す。

「食べたことあるの」

その童子の児戯のような攻防を見守る雲雀は、その手がいつ群がる鯉の一匹を捕らえて握りつぶすのかと考えながら暇つぶしのように声を掛けた。

「金魚」

「ありますよ。骨ばっかりいがいが当たって、カルシウムは取れそうですけど美味しくありませんでした」

どういった経緯で食べたかは語らず、賞味した際の感想だけを述べる男が、するりと手の中に滑り込んできた一匹を掴むような所作をしたのに発起された雲雀は、話題を続けるつもりは無かったのにさらに言葉をかさねてしまった。

「美味しいんじゃないかな」

「金魚がですか」

びっくりしたように池から指を引き抜いて己を振り仰いだ骸に、雲雀は小さく笑って答える。

「鯉だよ。鯉料理はあるからね」

「ああ、そんなものがあるんですか」

「言っとくけど。その鯉を取ったって、調理させないよ」

納得したと頷いて池に向き直った骸が、今度は明確な狙いを泳ぐ魚に定めているのを察知して、雲雀は釘を刺した。

丸々と肥え太った50pはあろうかという大魚に目を付けて、口に指を呑まれた際にそのまま吊り上げようとしていた男が、悄然と指を戻した。

食い付こうとしていた餌が目の前から忽然と消えた彼は、すかっと何もない水上の空気を租借してなんとなく恨みがましい形相になっている気がする。

けれど生命が助かったのだから僥倖だろう。

「駄目ですか」

一方の骸はといえば、甘えの滲んだ懇願を雲雀に送ってくる。

「駄目。大体、ちゃんと専用に養殖した奴じゃないから、泥臭くて食べれたものじゃないよ」

「残念ですねぇ」

手を振って水を跳ばしている男から心底そう思っているのが伝わってくるが、無理なものは無理なのだ。

これ以上留まったら押し切られて気に入りの鯉を一匹失うはめになると悟った雲雀はさっと踵をかえした。そうすれば、餌が無くなったとみた鯉が散っていった水面に未練がましい視線を送っている骸が追ってくると分かっている。

案の定、自身を置いて座敷に戻っていく雲雀に気がついて男は池渕から離れた。

「後で凪達も来ますので、入れてあげてくださいね」

「いつも言ってるけど。勝手に僕の家をホテル変わりにしないで」

「いいじゃないですか。どうせ僕が泊まるんですから。3人くらい増えたって」

まあ、その通りだと肩を竦め、沓脱石で下駄を脱いで濡れ縁に上がった雲雀は一瞬顔を顰める。

「足」

嘆息して、彼は地面を直接歩いた靴下のまま上がり込もうとした骸を制した。

雲雀に気を取られてすっかり失念していた骸はすみませんと謝罪して素足になり、その汚れ物は下の者に任せてしまおうと沓脱石の端に置く。

それら一連の行動に頓着せずに青畳の上を白足袋で擦って上座に着いた雲雀は、盆に置いてあった湯飲みを持ち上げる。随分ぬるくなってしまったお茶を呷り咽喉を潤し、試すような笑みを形作って、後ろ手でたんっと小気味よく障子を閉めた骸を流し見た。

「貰うものは貰うよ?」

近寄ってきて膝をついた骸は、耳朶を挟むようにして包んだ手の親指で、雲雀の微かに細められた艶の滲む眦に触れ、撫ぞっていく。

「ええ。ちゃんとお返ししますよ」

そうこちらも笑って返した闖入者と、剣呑としているようで、そうではない戯れ言を交わす庭園の主の声は、障子戸に遮られて水面に顔を出していた最後の一匹に届かない。

その一匹は、ぱくりと口を大きく開閉すると、見切りを付けたように水中に潜っていく。

 

 

人工の明かりを反射してきらりと光って揺らぐ水面を、鯉の尾びれがぱしゃんと叩いた。

 

 

「恭さん」

襖越しに掛けられた声に、帯さえなくはだけきった着物姿で気怠げに横たわっていた雲雀はのそりと腕を着いて身を起こした。

「三人が見えましたが」

「ああ。通していいよ」

「はい」

中の様子を察しているのだろう。そのまま開けることなく報告を済ませる側近に短く許可の意を伝えた雲雀は、部屋の外で相手が律儀に頭を下げ去っていく気配を感じとる。そこではたと、着替えを言いつけるべきだったかと後悔した。

しかし草壁の事だから言うまでもなく持ってきているだろうと推測して、横でいつの間にかきっちりと服を着込んでいる男を取りにやる。

粛々と従った骸が襖を開ければ案の定、式台の板床には薄ねず色の着物と帯が入った金彩の塗盆が置かれていた。それを戻ってきた骸から受け取り、立って着ていた物を脱ぎ落とし、新しい着物を羽織った雲雀が口を開いた。

「そういえば」

「はい」

「なんで金魚なんて食べたのさ」

「たいした理由じゃありませんよ」

前を合わせる雲雀に返答しながら、骸は畳んで小結にしてある帯を解いて差し出す。それに相手が満足げに瞳を細めるのに瞳を和ませ、彼は正座して雲雀の脱いだ着物をたたみつつ話し始めた。

「どれくらい前だったかな?猫に憑いたことがあったんですよ。その時、金魚鉢のなかでひらひらとしている赤に物凄く惹き付けられて、本能の儘に狩ってしまったんです」

襟を正す雲雀に呆れたと言わんばかりの視線を上からそそがれても、骸は苦笑を返すしかない。

「まぁ、勿体ないので食べてみたんですけど」

着物をたたみ終えた骸は情事の残滓をまとわりつかせ妖しさを一層増したにもかかわらず、その前ように凛とした姿に立ち戻った雲雀の袖を空になった手で引いた。

「中途半端に人間の感覚が残っていたのが悪かったのか、先程言ったように痛いばかりで」

求められるままに腰を屈め、胸元へ抱き寄せられた雲雀は、相手が神妙な顔をして続けた失敗談に、はんなりと唇の端を持ち上げる。

「馬鹿だね」

そう柔らかに嘲笑する小鳥の嘴を、骸は咎めるようについばんだ。

 

 

その晩。

5人の膳に鯉料理が並んだ。

 

 

 

 

         

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〇 

 に   

 戀 

。  〇。