膝を抱えて暗雲背負い、恨みがましい目を向けてくる端整な容貌の青年を、草壁は決して嫌いではない。

主人に怪我を負わせた例の事件時はともかく、既に雲雀自身が水に流し(ては居ないが、既に彼の中で決着はつけられていて、拘ることではないようなので良いのだ)いるのだから、青年に遺恨をもつ動機、理由はない。

自分に向けられる敵愾心も、気にはならない。

むしろ微笑ましいと思う。

彼が覚える焦燥も嫉妬も己には無用なのだ。

雲雀への思いの深さで青年に負けるつもりは一向にないが、それは青年とは異なる思いであり、青年のそれは的はずれにも程がある。

草壁は雲雀に心酔し崇拝している、家臣だ。

雲雀の手足となって働き、役に立つことこそが無上の喜びで、青年のように抱きしめたいとも触れたいとも思わない。

むしろ、畏れ多くてそんな機会が巡ってきたら卒倒する。(むろん危機的状況下での接触にはなんの躊躇いも覚えない)

雲雀自身、草壁とそんな関係になるなんて思いもつかないだろう。

人は自分の足下にでき、無くなることのない影を気にするだろうか。それに親しみをこそ覚え、恋情をもつだろうか。

答えは否である。

雲雀と草壁の間柄は、つまりはそんなものだ。

だから、幾ら雲雀と草壁が親しく接しようとも、そこに信頼という名の絆が結ばれていようとも彼が不安に覚えることはなにもないと断言できる。

第一、    主は傍目にわかりにくく理解できない表現方法であるかもしれないが、きちんと彼に愛情をむけている。

「恭さん」

「なに」

「そろそろ構ってあげてもよろしいのでは」

後ろを示せば、雲雀は少し背後の気配を探って、必ず成功するだろう悪戯の結果を待つ子供のような顔をして口唇を愉快げに吊り上げた。

「まだだめ」

そうしてまた書類に顔を落とす雲雀が、こんな時間に充足している事を知っている。武器を振るい血をまき散らす時間以外、退屈に欠伸をこぼし、寝てばかりいたあの頃に比べるべくもなく、雲雀はありとあらゆる時と場所で生き生きとしている。それは紛れもなく、あの青年がもたらしているものだ。

雲雀を楽しませ、こんなふうに柔らかい表情をさせてくれる。

 

だから、草壁は彼が嫌いではない。

 

 

 

(呪いをかけるのだけは、やめてほしいんですがね)

 

目撃しました

お百度参り

(呪いの藁人形も発見)