きゅっ、と、革の擦れる音が立つ。

男の意外なほどに節くれだった手が、黒に覆われていく。

もっと、すんなりとした暴力をふるった事のないような手を持つことを思わせる男が、それでも正しく。力だけが全てを決める世界で生きてきたという証だった。

「いきましょうか、恭弥」

準備を済ませた男は、先に仕度を終わらせて待っていた小柄な少年に向き直った。

血をキレイに拭い取った姿の少年は、彼の言葉に、静かに頷いた。

 

覆う黒

 

光のない夜の底のような影の中から、こちらに向かってくる姿を見て、息を詰め、その顔が差し込む光に顕わになると、綱吉はほっと息をついた。

「ヒバリさん!」

雲雀は見た限り酷い怪我はしていないようだった。少々その軟らかな頬の輪郭線が膨れて青くなってしまっているが、彼の美しさに変わりは無い。揺ぎ無くしっかりと自分の足で歩いている事からも、彼が五体満足だとわかる。

自分たちが助け出す前に、自力で逃げ出してきたのだろうか?

彼ならば、それくらいやってのけるそうだ。

この廃墟を必死になって探し回ったのは、無駄骨だったようだ。苦笑して、それでも安堵する。

このまま雲雀がこちらまで来るのを待つのももどかしく、綱吉は雲雀に駆け寄っていった。ダメ綱とも呼ばれ、自身が弱いことを十分承知している綱吉にとって、雲雀は恐ろしくも、憧れる対象だった。

そんな綱吉の姿に、背後にいた獄寺はと言えば、忌々しげに顔を顰めた。あんな野郎になんざ近寄りたくないというのが本音だ。いまだに、応接室での事件は記憶に新しい。しかし置いていかれるのも嫌なので、はやる綱吉を追って自身も駆ける。

それが、僥倖となった。

自分の元に辿り着いた綱吉に、雲雀がにこりと笑った。いつもと変わらない、キレイな笑顔。

「よかった…ヒバリさん、無事で―――」

10代目!!」

「え?」

風を切る音を聞いた。

貧弱な腹を抱え込む腕の物凄い強さに、綱吉の息は一瞬止まった。その綱吉を抱え込んで、獄寺は庇うようにして背中から地面を滑っていき、砂利に皮膚や肉を抉られた。それでも、獄寺は満足なのだ。

突然引き倒された綱吉はといえば、なにが起こったのか分らず、衝撃に閉じていた目を恐る恐る開けた。

なぜ、天井が見えるのだろう。

「っつう」

頭のすぐ傍で聞こえた獄寺の呻きに、綱吉は事態を把握して慌てた。

恐らく、獄寺はなにかから綱吉を庇ったのだろう。

その何かを避けようと、綱吉ごと倒れこんだのだ。

「ご、獄寺くん!?大丈夫!?」

まさかとんでもない凶器をうけたんじゃぁ、とわたわたと獄寺の上から降りて、彼の身体の彼方此方に目を走らせる。肌の露出した部分を深く擦り剥いているようだが、深刻な怪我はないようだ。本人も、平気ですと笑っている。

ほっとして、へたり込みながら、一体どこから攻撃なんて、と綱吉はきょろきょろと辺りを見回す。その間にも獄寺は立ち上がり、雲雀に向かって身構えた。

「獄寺くん?」

なにを、と言う前に、綱吉を慕う男は吼えた。

「てめぇ、一体なんのつもりだ!!心配してくださった10代目に、手ぇあげるなんざぁ!!」

「えぇ!?」

獄寺の言葉に跳び上がって、綱吉はいまだ座り込んだまま、ばっと雲雀を振り仰いだ。

雲雀は、かわらずにしょうしょう皮肉げな笑顔でたたずんていた。ただし、その手にあの鈍色のトンファーを持って。

「え、えと…ヒバリ、さん?」

もしかして、虫の居所が悪いのだろうか?や、八つ当たりされそうになったのかな…綱吉は必死になって武器を振り上げられた可能性を探る。最悪の事態だけは、どうあっても想像したくない。

彼が敵に回るなんて…

ぎゅっと、綱吉は手を握り締めた。

「惜しかったですね。もうちょっとで、その能天気そうな頭をグチャグチャに出来たでしょうに」

愉悦を孕んだ声が、雲雀が姿を現した闇から響いてきた。

そこに、雲雀以外に誰かが潜んでいたのだ。

綱吉も、獄寺も、微塵も気付かなかった。

こつ、こつ、と、ゆっくりとした靴の音が響く。

得体の知れないなにかが迫る気配に、綱吉の、獄寺の産毛が総毛立った。

体が震え出すのを止められない。

怖い、と言う、ただひとつの感情しか、綱吉の中にはなかった。

こんな怖さを、感じたことは無い。

瘴気、とでも言うんだろうか。

その空気に触れただけで、端から自分の体が壊死していきそうだった。

「こんにちは。会うのは、2度目ですね」

光の中にたった男は、黒曜の制服に迷彩の柄のシャツ。それに、黒い帽子と、艶々と光を弾く帽子と同色の革の手袋を嵌めていた。

その完全に姿を見せたその男に、綱吉は息を呑んだ。

「あなたは…!!」

フウ太を追っていたあの時、あった男だ。

他でもない、雲雀が幽閉されていると教えてくれた親切そうな、黒曜の、人質。

「ひ、人質にされていたんじゃあ!」

「おや?まだそんな事を信じていたんですか。見た目どおり、お目出度い頭をしているんですねぇ」

可笑しそうに、男は黒手袋に包まれた手を口に当てて肩を揺らして笑った。酷く、侮蔑的な仕草だ。

「てめぇ!!」

綱吉を侮辱され、獄寺がいきり立つ。そのにやけた面に一撃喰らわせようと、彼は強張る身体でガラス片を踏みしめて走った。

「獄寺くん!!」

止めようと追い縋る綱吉の声すら、耳に入らない。それは、恐怖に耐え切れなくなった動物の行動と同じだ。

雲雀の背後に立つこの男は、柔和な顔をして、殺気ひとつ纏っていない。

なのに、この重圧はなんだ。ひしひしと自分を取り巻く、真綿で首を締められているような、怖気。

自身を捉えた畏怖を振り払うべく、獄寺は闘わなければならなかった。

自分の攻撃に、無防備に立つ男は呆気なく倒れる。

そう、獄寺は信じた。

そうでなければならなかった。

だが、現実はそうではなかった。

得意の技を繰り出す事すら、男に近付く事すら、獄寺は許されなかった。

彼よりもなお早く、俊敏に、密やかに動いた漆黒の影が向かい来る獄寺を吹き飛ばしたのだ。

「獄寺くん!!!!!!」

勢いよく跳ばされ、壁に激突したた獄寺に、綱吉の悲鳴じみた声が廃墟に木霊した。

獄寺をいとも容易く打ち倒したのは、他でもない雲雀だった。

たったいま決して軽くは無い人一人を宙に浮かせたというのに、微塵もその影響を漂わせず、涼やかにその場に立ち、切れ長の瞳をより細くし、転がった獄寺を睥睨している。

「ヒバリさん!!なんで!!」

今にも泣きそうに、綱吉は雲雀を見上げた。

瞬間、息を呑む。

冷たい、氷のような瞳。なんの感情も浮かべないその漆黒は、それでも、光を映して、ただただ美しい。

嫌な予感が、先ほどからずっと綱吉を襲っていたのだ。それを肯定するように、男の声が響いた。

「無駄ですよ。彼はもう、僕のお人形ですから」

その言葉に、綱吉はああ、と絶望する。

分っていた。

聞かなくても、何故かなんて分っていた。

そでも、認めたくなかったのだ。

「そんな……そんな…」

否定するかのように首を振る綱吉に、男は愉しげに声を弾ませる。

「君たちにあの人を取られてしまいましたが、別にいいです。変わりに、彼を貰いましたから」

いつの間にか雲雀のすぐ後ろに立っていた男は、骸は、黒い手袋を嵌めた手で、雲雀の首をゆっくりと撫でた。

その手は、するりと首から、鎖骨へと伝い落ちていく。発光するように白い肌を艶のある黒がゆるゆると這う姿は、この上なく淫猥だった。

恋人のように親しげに肌を辿る、情事の最中を思わせるその手つきの妖しさ。

「さぁ恭弥。今度は外さないでしょう?」

耳朶を食むように、雲雀の耳に唇を寄せて骸は睦言の如くに甘く囁く。

「彼を見る影もない位、壊してあげなさい」

それに、雲雀は応えた。

ゆうるりと、最後に絹糸のような髪を梳いて、その黒い手が離れていくと、雲雀はしなやかに美しい肉食獣のように、主の愛でた髪をなびかせ、足を踏み出し。

彼は、彼の主人の敵の前に立ち塞がった。