淀みなく流れる言葉に、彼は未だ慣れない。意味を解することはできる。その言語を紡ぐ声は日毎夜毎、彼に愛を囁く声だった。けれど、やはり彼にとってそれは耳に馴染まぬ異国の言葉だった。 その言葉で会話をしている男の意識をこちらに向けようと、雲雀は開いたドアを手の甲で軽く叩く。 彼の訪れを知覚していた男は、音に反応して特に驚いた様子も見せずに顔を上げた。雲雀の顔を目に捕え、その瞳が滲むような光を浮かべる。男は電話の相手に断りを入れてから、受話器をその耳から外した。 「どうかしましたか?」 酷く軟らかに問い掛けられた。男は――骸は、いつもそんな話し方をする。かつてあんなにも気に障ったそれを、雲雀はいつの頃から憤ることなく聞けるようになった。 「出かけてくる」 ほんの僅か、骸が眉を顰めた。 苛立ちとは違う。ただ不快なのだろう。 「少し待ってください。一緒にいきますから」 保留にしていた電話をもう一度持ち直し、男は再び雲雀には親しめぬ言葉を紡ぎだした。 お待たせしました、と微笑んだ男と連れ立って歩く。 出かけに男の手によって着せられた黒いコートと白いマフラーが寒風に僅かになびいた。手袋はしなかった。変わりに、男の冷えた手と繋いだ。お互い冷たい性質であるから、暖を取るのに適しては居ないが、それが目的では無いから構わないだろう。長いコートの袖に半ば埋もれるようにして、ただ、離れないように、逃れられないようにと、指と指を絡め、きつく繋ぐ。 そんな必要がないことを、男も雲雀も、理解していたけれど。 頭に逃げる気など失せてしまっていた。 それが何時からだったのか。 肌に、髪に触れる男の手に嫌悪に震えなくなった頃からか。 耳朶を食む甘い睦言に嘲弄を覚えず、ただ受け入れる事が出来るようになった頃からか。 それとも、静かに微笑む男にどこか愛情めいた情を覚えた頃からか。 本当に、雲雀には判別がつかない。拒絶は何時からか雲雀の中から姿を消し、代わりに染み入るように静かな安寧が広がっていた。 男もそれを知っているだろう。 例え手を離したとしても、もう雲雀が逃げないという事を。向けた情愛を、拒否される事がないことを。 いつの間にか足を繋いでいた鎖は解かれ、扉の鍵は外され、屋敷を埋め尽くすように日々絶え間なく飾られていた薄紅の花は姿を消した。 それでも、男は雲雀が一人で行動するのを好まなかった。 不安、なのだろう。 頭では理解していても、ほんの少しの疑念が男を捕えて放さない。 愚かだと思う。 もう雲雀はここにいることを決めてしまった。今はまだ愛してはいないけれど、この情がそれに変わるのも遠い日では無いことを自覚もしている。 あまりにも長く、時が経ち過ぎた。憎しみが枯れはて、馴れ合うには充分すぎる時が。 もともと雲雀のプライドの問題だったのだ。男の力量を認めてしまえば、力の足りぬ自分が悪いのだと諦めもつく。 だから雲雀は、握り締める骸の手を握り返してやる。隙間が無いように、しっかりと繋いで、喧騒に溢れる異国の街並みを、静かに並んで歩く。 この国に来て、10年の時は数えたが、実際に雲雀がこの国のこの街を歩いたのはほんの1年前が初めてだった。それまで、ずっと男が用意した屋敷から出ることは無かった。 言葉と同じく見慣れぬこの街で、雲雀は隣の男がいなければまったくの異邦人に過ぎず、途方にすら暮れたかもしれない。もう、それほどまでに、この男に依存していた。10年、ただ男のためだけに存在していたのだから、仕方ない事だと雲雀は諦めの溜息をつく。 降誕祭が近いのだろう。ウィンドーに飾られた品々はそれを意識した物ばかりで、小さなツリーが、その中に入っていた。立ち並ぶ店舗の多種多様なそれらを見るともなしに眺め、通りを進んでいく。雲雀はいまだ何をしに来たと目的は言わず、男もまた聞かなかった。こんな風に、ただ散歩をして終わってしまうことも何度かあった。それでも、骸も雲雀も、不満はなかった。見知らぬ人間の中、二人取り残されたようにいる空間が、好きだったのかもしれない。 前にある店舗の、吊り下げられた瀟洒な鉄製の看板に、木の枝が括りつけられていた。それを認めて、雲雀は調度その枝の下に差し掛かったところで、足を止めた。 くん、と、繋いだ手が引かれ、骸は其処に佇んで動かない雲雀を振り返った。 「恭弥?」 10年の時は、変わらず二人に降り積もった。それでも、相変わらず男の方が僅かばかり背が高い。雲雀の背も伸びたが、男の背も同じだけ伸びた。この差は、いつまでたっても埋まらないだろう。 変わらぬ色違いの双眸は、それでもほんの僅かに、穏かさが加わった。以前、そこには無理やり押さえつけられた表面の静けさとは反対に、煮えたぎる激情があった。 「なにか欲しいものでも――」 言葉は、最後まで音にならなった。 繋いだ手を強く引かれ、倒れこみそうになった男の身体を受け止めた雲雀によって、塞がれてしまったから。 唇を触れ合わせるだけの、拙い口付け。 それを、雑踏にまぎれて交わす。 スキンシップが過剰なこの国では、この程度の事、大した衆目も集めない。例えそれが男同士だったとしても、おおらかな彼らには侮蔑もない。 ほんの数秒。二人が過ごして来た時に比べれば、あまりにも短い時間だった。 それでも、それは雲雀からした始めてのものだった。 「恭弥」 離れていった美しい貌を、骸は驚きに満ちて眺める。 いたって平静にそれを受け止めて、雲雀は小バカにして、たった今まで男と触れ合わせていた唇を吊り上げた。 「ヤドリギの下では、キスしてもいいんだよ」 そんな事も知らないの?と笑われて男は頭上を見上げ、反芻するようにそっと自身の口唇を指でなぞる。 男のそれが、雲雀と同じように楽しげに吊り上がった。男の、含むような笑い声が耳に届く。 次になにを言われるか、雲雀には予想できていた。 「僕からしても?」 違わぬ男の言葉に、雲雀は咽喉を鳴らした。 くすくすと可愛らしい笑みを零すそれを捕えて、笑んだ骸は今度は自分から口付けた。 雲雀がしたのと同じように、触れるだけのあまりにも他愛ないそれ。男の首に腕を廻してやりながら、可笑しなものだと雲雀は笑う。 男との口付けに慣れ、その冷たい熱になれ、情さえ抱いた。 きっと、もうすぐこれは愛に変わる。 それでも、それを口にするのはまだ先だろう。 たぶん。その日まで、男の不安が消えることは無い。 ゆっくりと離れていく骸の口から囁かれた異国の愛の言葉は、やはりまだ馴染まない。 この言葉も、いつかは男と同じように馴染む事が出来るのか。 そればかりは、雲雀とっても、謎のままだった。 By 9.ヤドリギの下のキス |