アルベルトは、ただ悪鬼を愛しているだけだった。

否定することなく、あるがままの異形を。

二者には、それだけで良かったのだ。

 

貴方のその右手は、広がる思想は、美しい容姿は、世界を救えますか?救えますか?答えろ

 

戦前の宿営地には独特の空気がある。

決壊する寸前の、押し込められた恐怖と昂揚。

統制の敷かれたハルモニアの軍にあっては、諍いを孕んだ喧噪と混乱は遠く、寄せ集めの軍隊にいたシーザーにしてみれば静かすぎた。

それでも、水面下のざわめきは変わるものではなく、ちりちりと皮膚をあぶる。

冷静で在らねばならない立場の自身を否応なく煽るそれは居心地の悪いもので、しかし今から数多の命を指示一つで散らすことを考えれば、それに乗せられてしまいたかった。

愚考だと、自嘲に唇を歪め共に神官将の天幕から退出してきた兄を横目で窺えば、平素と変わらぬ涼しい顔をしている。情の薄い、だが人の情操面を読み取ることに闌け、その場その場の流れを策の内に取り込む機転に富んだ、軍師として限りなく優秀で、こうあるべきと言う見本そのものであろう兄の姿。

その淡々とした様相にほんの少量の妬みを覚えてしまうの、は同じ立ち位置を選らんだ者として仕方ないことだ。だが、それ以上に込み上げる厭わしさと苦々しさ。

こうなるものかと。

こんな軍略家にだけはなりたくないと、シーザーの身の底で何かが叫ぶのだ。

それが、少なくとも無辜の民を思う人としてならば正しい判断であると、信じている。

だからこそ、シーザーは内心で唾棄する。

(冷血漢め)

隣に並ぶ兄に毒づいて、しかしこの状況下では虚しいばかりの行為だと自覚する。自身をも貶める行いは止めようと籠もった息を吐き出し、平静を保とうとした未熟な軍師は、ふいと日が陰ったような感覚に襲われて歩を止めた。

明るさは変わらず、頭上にかかる雲もなく空は突き抜けるような晴天のまま。

己と兄とに与えられた天幕近くに入った途端の変化に、原因を探ろうと視線を巡らせ捉えた存在に、シーザーは嗚呼、と納得した。

アルベルトの天幕近くの一抱えくらいありそうな岩に腰掛けた黒衣の異形が、帽子を取りハルモニアでも類を見ない見事な金髪を曝し、僅かに仰向いて日射しを浴びている。

眩しい光の中、その姿は遙か蒼穹の彼方をたった1羽で飛ぶ大鳥からポツンと落とされた色濃い影のように、奇妙に白々しく地上から剥離していた。

過ぎる明暗の対比から眼球にずくずくとした鈍痛が生まれ、一旦きつく目蓋を閉ざしながら、もう戻ってきたのかとなんとはなしに思う。

軍議が開始される前に、アルベルトから森に潜む4個小隊程の殲滅指示を受けて出かけていたのに、既に完遂してきたのか。

ああ、普段と変わらないといえば、あの化け物は今日も変わっていない。

なににおいても極端から極端へ唐突に走るあの人外は、いつだとて異常で異端で、それが普通だ。

それの中で、シーザーは共に過ごすうちに悪鬼が常に血に酔うわけではないことを知った。幼い頃の記憶を掘り起こせば、過去でもそうであった。

時に冷静すぎるほど冷静に、ユーバーは命を刈り取っていく。

アルベルトの示唆する通りに、さながら人形のように諾々と情動の滲み一つ無く、どこまでも事務的に人を殺すさまを見た。

今回もそのようであったのだろう、仕事が早い。

己が愉しみに浸る場合、ユーバーは遊戯である戦闘を長引かせ、さらに興がのると殺した者達の遺骸を切り刻み、引き千切るという作業に耽溺する。それ故に悪鬼に労働を望む場合、時間配分には余裕を持たせなければならず、時には遅延もやむをえない。それでも異形には信頼に足るだけの価値があり、無比なる能力を保持する人外が敗北する可能性は限りなく無に等しい。真の紋章などといった、イレギュラーな存在が出現さえしなければと但し書きがつくが、それとて万に一つの可能性だ。それ故に、決して失策を許されぬ場面に置いて、アルベルトはなによりも率先してユーバーを用いていた。

しかしどのような要因によって、まるで金貨の裏表のようにユーバーの殺戮に対する衝動の切り替えが行われるのかはアルベルトをもってしても謎であるらしく、周期的というわけでもないらしいのが悩みの元だ。

これがわかれば、策にでる影響を鑑みる必要も少なくなって楽だろうにと、無関係のシーザーですらたまに思うほど、その働きには雲泥の差がある。当然、そんな軍師達の嘆きに何処吹く風のユーバーは、至って平穏で無為な日々に(悪鬼にしてみれば)厭いて無闇やたらに血を求めたりもせず、ふらりと姿を消すこともなく、ごくごく一般的に過ごすのがこの状態の常である。無論、アルベルトに何か策謀がある場合、ここぞとばかりに使われているが。

いつもこうであればいいのにと呟いたシーザーは、アルベルトからこれがかなりの長期に渡り、事によれば100年単位に及ぶ場合もあると聞いた当初、半信半疑だった。しかし確かにそうでなければユーバーを暗示する伝承がさらに数多く歴史に記されているはずだ。沈静しているユーバーは冬眠してるみたいだと感想を抱いて、言い得て妙だが理性よりも本能に根ざす行動をとる悪鬼には的を得ているなとシーザーは密かにこの時期をそう呼ぶことにしている。

そんな不名誉な分類を受けた安定期とも呼べるような精神状態とはまた別に、ユーバーが敢えて戦闘を避けて、無理に感情が波打つのを押さえつけているのを居候の弟は目撃していた。追跡者の影に息を潜め、災禍が過ぎるのを待つ怯える逃亡者じみた悪鬼を、兄であるところの暗赤髪の男が守るように隠すように、奪われぬように普段よりもいっそう傍に置いて離そうとしない時を。

文献から読み取った情報からに、たぶん、あれは本当に逃げているのだ。

ユーバーに瓜二つの造形だと記される、もう一人の黒騎士から。

子供の頃にもそんな光景を見ていた気がして、アルベルトの屋敷に転がり込んでからシーザーは忘れていないつもりでも脳というのは意外と色々な事象を忘却していっているものだと痛感している。嫌なことばかり覚えていて、良いこととは言わないが、それでも負の感情を抱かない為の要素は消えていっていた。

今は丁度、冬眠中らしいユーバーは血生臭い戦闘の名残など露ともなく、遠乗りにでも来たように長閑に日向ぼっこをして寛いでいる。

しかし牧歌的な光景であるはずなのに、やはりその場に満ちるのは滅亡の匂いがする暗い薄闇である。

それを感じ取るのは自分ばかりではないからこそ、付近に人影が見られない。

地位の高い将校らの天幕付近に一般兵は近寄らないのは定石だが、各天幕の出入り口には見張りが付き、哨戒の兵もいる。特に戦中重要な資料を大量に保管していて密偵の侵入が予測される軍師の天幕は、厳重でなければならない筈だ。にもかかわらない人気のなさは異様である。ともすれば異常事態として迅速な対応を必要とされるのだろうが、何故この様な事態になったか理由を考えるまでも無いので、シーザーは任務放棄で後々アルベルトから叱責を受けるだろう兵達に同情を寄せるに留まった。

疑問を挟む余地もなく、あの異形の所為に決まっている。

静かに拡がり覆い尽くし、やがては侵食を始める暖かくも冷たくもない闇に我知らず、誰も彼もが本能の鳴らす警鐘のままに逃げ出していったのだ。

それが普通だ。

兄のやり方に賛同できないのと同じように、たとえ身近に過ごし、人間味のある姿を幾度目撃したところで、シーザーは悪鬼に好感を抱くことは出来ない。

兄への反発は性分であるが、異形への畏怖と嫌悪は根幹に根ざす種としての、生命としての防衛本能だ。

だというのに。

なぜ。

 

「理解できねぇ」

 

するりと口をついて出た言葉は、忌憚ない意見である。

その己よりも明るい赤髪の呟きが向けられた先を取り違えたシーザーの隣にあった軍師たる男は、輪郭すらも優美な体躯、それを縁取る金光にまぶしそうに目を眇め、淡々と同意を返してきた。

「俺とて理解できてなどいないさ」

台詞のわりに苦渋の一滴とても落とされては居ないのに、弟から怪訝を向けられても、男には晒すような哀寂はないのだからそっけない素振りでしかいられない。

彼は悪鬼の理解者ではなかった。

アルベルトは、決してユーバーを理解などしていなかった。

ただ長年に渡り、最も近くで過ごして来たことで培った情報によって、その生態を、異形を知っているだけだ。

知識としてその整いすぎた美貌に生まれる表情筋のひとつ、瞬きひとつ、視線の動きひとつで些細な心情の機微を把握し、希求するものと行動とを予測しえるだけで、決して何を原点とし、どういう思いをもってそういう情動を起こすのかなどは、まったく持ってアルベルトの理解の範疇を越えていた。

しかし、人同士ですら別個の存在である他者を完全に理解出来る筈もなく、それは得てして重要ではない。

理解せずとも、受け入れてしまえばそれでいいのだから。

それ故に、悲嘆するでもない響きは、次の言葉を発するにあたり柔らかく滲んだ。

「ただ、愛しいだけだ」

真っ直ぐに己を注視する二つの眼差しに、ふとこちらを振り仰いだ異形の瞳が、アルベルトのそれとかち合い、つと下方にずらされた。ともすればアルベルトよりも背丈の低いシーザーへと移したようにも感じられる動作に、しかし何を求めているか察して軍師はそれを与えるために弟の側から離れてしまった。

瞬きもせずに見据えてくる色違いの虹彩から逃れもせず、アルベルトは無防備な悪鬼を静かに見返したままに、色素の薄い唇と触れ合う。接触はあまりにも短く、けれど男の触れたばかりの部位は、離れたというには烏滸がましい距離で停止する。

たった今施された愛らしい接吻に、異形は満足に獣のように瞳を細め、己よりも熱い柔肉とに空いた僅かな隙間から吐息と混ぜた密やかな笑いを零す。

そうして、現在も過去も未来も兇刃を握り続けるだろう空の右手を伸ばし、首に絡めてアルベルトを引き寄せてまた重なるを望んだ。

それは軍師が違えず悪鬼の望みを読み取ったことを意味するには充分な答えで、艶やかな笑声が届かずとも伝播する甘ったるい空気に、ただ傍観する他なかった弟は、絶望じみて独白する。

「そうじゃない」

あの美しい怪物が、人の測量範囲外にいるのは最初から決まり切った不動の事実で、今更理解に努めようなんて無駄な労力を使う気はさらさら無い。

「そうじゃない、アルベルト。そうじゃなくて、なんであんたがあの化け物を愛せるのか、それがわからないんだ」

隣人の如く。

あまりにも人間と酷似した、けれど絶対的に異質なあの怪物。

あの存在は、精神の脆い部分を喰らい発狂させる、恐ろしく、おぞましい負の塊だ。

傍に在る。ただそれだけで、生き物を脅かす耐え難きまったき暗闇だった。

生者ならば、誰であろうと目を背けたくなる、忌避してやまないだろう、そういった何かだ。

 

それを、なぁ。アルベルト。

あんたはなんでそんなにも自然に愛せるんだ。

 

その問いの答えを想像することは、何故かあまりにも不吉だった。

近親たる血を分けた兄の、此方側との絶対的な隔絶を、剥離を告げるものである気がして。

最早アルベルトを引き留めることが、連れ戻すことが不可能なのだと突きつけられるような畏れを覚え、シーザーは正答を模索することを放棄して、光の中にある幸福な恋人達から目を逸らした。

 

(嗚呼。光の中に、闇が溶けている。)