消えてしまえばいい。 混沌に帰ってしまえばいい。 この個がいない世界ならば、何もなくていいのだ。 滅ぼすもの 細く、白い指先が硝子の縁をまるで愛撫するかのように辿り、つと掴み上げた。作り物のような無機質な手が、小さな動きで透明な杯を幾度か揺らめかせて弄ぶ。満たされた琥珀色の液体が緩慢に波打ち、とろりと名残惜しげに硝子の内壁を滴り落ちる様を眺め、異形は腐敗した果実の芳香を放つそれをゆっくりと口に含んだ。 低いわけではないが、さりとて高級でもない宿の一室。設えられた丸い卓上に、嵩が半分ほど減った酒瓶とグラスが一つ。悪鬼は倒れ込むように上半身をその卓に乗せて、ゆれる琥珀に向き合っていた。 くつくつと喉を震わせ、だらりと伸ばした腕でもって時折り酒を煽る異形の姿に、珍しい、と軍師は素直に感心した。 酔わぬ所為かもしれぬ。平素、妖はあまり酒を嗜まない。とはいえ、食物を口にするよりは頻度は相当高い。同行者が食事をとっている間、手持ち無沙汰にか異形はごく偶に酒を口にすることがある。しかも、美食とは縁遠い存在の癖に、舌だけは異様に肥えていて、高い酒を大量に消費する。 その異形が訳も無いのに酒を口にしていることもだが、まるで人のように愉しげにそれを口に含んでいることに、軍師は何よりも気を引かれていた。 いつもならば、水でも飲むかのように、淡々とつまらなそうに杯を重ねているのに。 今はまるで、血に酔った折のように酩酊し、小さく笑みまで浮かべている。 異形と時折り酒の席を共にしている軍師は、目に心地良い容姿をしているのだから憮然とした顔など晒さずに、いつもそうしていればさぞいい酒の肴になるのにとチラリと頭の隅で考え、すぐに打ち消した。この悪鬼が思い通りにならないのはいつもの事だ。 しかし、珍しい事もある。悪鬼の上機嫌は珍しくも無い事だが、それが血と殺戮に関わらぬ所で起こるというのは滅多にある事ではない。 血の臭いに、慣れていない、とは言わない。しかし、主と少女のように嘔吐感を及ぼすという事も無いが、決して快とは言えない血臭を漂わせぬ異形のその姿に、軍師は席を共にする事に決めた。 アルベルトが自分用にグラスを出して、特に声もかけずに向かいの席に腰を下ろすのに、悪鬼はグラスに落としていた赤と銀の色違いの瞳をゆるりと向けた。血の凝ったような赤髪と、澄み過ぎた湖の如き碧の瞳とを見止め、異形は無邪気に笑って見せた。その生き物を住まわせる事の無い冷ややかな透明な水も、畏怖される色彩も気に入っている。正しく生有るものと言えぬ異形に、それは心地良い。ついで、また喉を鳴らし、ぺたりと木目の板に懐いてしまう。 酩酊状態にある異形が、童子のような態度を取るのは、常の事だ。殺戮に酔い、ぬかるむ血の海に座り込み、児戯のように死体を切り刻んでは無邪気に哄笑する。連れ帰ろうとする軍師を幼子のように、しかし多大な艶を含んだ瞳で見上げるのも。 だが、いつもならばその瞳は恍惚と冷めやらぬ熱に潤んでいるのだ。いまの瞳は動揺と混乱とから来る、恐慌にも似た逃避じみた狂喜に浮かされている。 異様な感情の揺れに、酒を口に運びながら、軍師は軽く眉を顰めた。 軍師が不可解さに頭を働かせるのも目に入らぬのか、顔の間近に持ってきた硝子の杯を廻して琥珀の揺らぐ様を眺めていた異形がふいと顔を上げた。 「なぁ、アルベルト。お前は歴史をあるべき所へ導くと言った。その言葉はお前の真実か?」 ことり、と金の髪を揺らして首を傾げて見せる姿に、悪鬼と畏れられる血塗られた姿を想像することは人には出来ないだろう。だが、紛れも無く人に死を運ぶ美しい異形に、感情の介在を策に許さぬ軍師は、首を縦に振る。 「ならばまどろっこしいことはせずに、殺して殺して殺して、滅ぼしてしまえばいい」 ぐいと半身を起こし、軍師に迫って、悪鬼はにぃとその唇で弧を描く。 「世界など、所詮破滅へと向かう歯車だ」 黒い袖口から覗く、闇の淵から伸ばされたような、白い手に頬を包まれ、アルベルトは瞠目する。 冷たい悪鬼の手はひやりとしていて、人のような熱を持たないその肌は汗ばむことなくすべらかで心地良い。だがその肌が人のように熱をもち、うっすらと汗ばみ自分の肌に絡む時の快楽もアルベルトは知っている。 「ならば、アルベルト。お前のすべき事は、世界に滅びを齎す事だ」 挟み込んだ軍師の顔に間近から笑いかけて、異形は毒を注ぎ込む。 片方の血に餓えた赤き瞳はらんらんと輝いて、炎のように燃え上がり、軍師の生き物を寄せ付けぬ酸の海を沸き立たせる。 「人を殺せ。老いしを殺せ。若きを殺せ。王を殺せ。貴種を殺せ。将を殺せ。兵を殺せ。僧を殺せ。民を殺せ。男を殺せ。女を殺せ。幼子を殺せ。乳飲み子も殺せ。」 片方の銀の瞳は、血を求める刃のように妖しく煌めき、お前は己を振るうに相応しい者なのだと訴え、この刃でお前の望む全てを切り裂いて見せようと囁きかける。 「貴賎を問わず人を殺し、国を滅ぼせ。」 狂った熱を孕む瞳が冷徹な脳を煮え立たせ、熱い吐息が耳を侵す。 「お前ならばその智謀をもって血と屍の大地を造り上げる策を成すことができよう。ただ荒涼とした世界が広がる大地を産み出すがいい。その世界を、俺が壊して混沌に還してやろう」 夢見るように微笑んで、異形は滅びを囁く。 城を傾け、国を傾けた古の太妖のように、それ以上に魅了に満ちて、世界を壊そうと誘惑する。 声に、瞳に、触れる指先に、微笑に、脳髄を犯される。 思考が熱に浮かされて、まとまらない。 ただ、強請るような悪鬼の声だけがいんいんと木霊する。 これは毒だ。 滴るたとえようもなく熱く、極上の酒にも似た甘い蜜毒に、頭の何処かでなにかが警鐘を鳴らす。 それは、人の本能とも言えるものかもしれない。 それが希薄なアルベルトすらも、感じるほどに。 滴る狂気に、己すらも侵食される。 魅入られたように異形を凝視し、しかしアルベルトはゆっくりと手を伸ばし、己の頬をつつむ異形の手に重ねた。ひんやりとした、造り物のように整った悪鬼の指に、それよりも些かは骨ばった己の指を絡める。 冷えた指先とは反対に、身の内を焼く熱に侵され、膿み爛れた激情が湧き上がる。それでも、アルベルトはそれを吐き出すわけにいかなかった。 それをする事は、己が許さない。 己に流れる冷徹なる血を引く者として。 世界を見据え、此処までたどり着いた者として。 例え、それがいつか必ず来る日であろうと。 自分が成す訳には行かない。 目指すべき所が、己にはある。 だから、自分はその誘いにはのれないのだ。 どれほどこの眼前で微笑む異形が魅力的であろうと。 どれほどこの異形に、心囚われていようと。 曲げるべき事が出来ない、信念にも似たものを、己は持ってしまっている。 「だから、ユーバー」 赦しを請うように、アルベルトは異形を見つめ、囁くように言葉を紡ぐ。 「私はお前のその願いを叶えてはやれない。けれど、私はそれ以外のお前の望みを叶えよう。お前の望む、血と争乱を。出来うる限り、お前に与えてやろう」 じっとアルベルトの瞳を見返し、ユーバーはゆるゆると瞳を閉じて身体を引くとふんと鼻を鳴らし、そっぽを向いた。 「ユーバー」 離れていった白い指先に、その存在に、アルベルトはその冷えた温もりを消すまいと呼びかける。 名を呼ばれ、チラリと男を見やった悪鬼はすぐさま目を背け、気だるげにあらぬ所に目をやって視線を揺らめかせる。 その姿に、膿んでいる。と軍師は唐突に理解した。 今日の異形の常に無い狂喜は、異形の生への膿みから来ているのだと。 しかし、何故に? 例え混沌を望もうと、無音の静寂を好まぬこの悪鬼が、破滅を望むなど。 血と争乱と言う、なによりも生が際立つものを好むこの悪鬼が。 彼が人の死に触れて喜ぶのは、それが何よりも生きている瞬間だと、知っているからだ。 ある意味、誰よりもこの異形は、生に貪欲だ。 膿んでいる。 何よりも、生きているはずのこの異形が。 その生に。 「何故だ?ユーバー」 己が死して尚、『生きる』だろうと確信していた異形に、有限の存在である軍師は愕然と。 愕然と問い掛ける。 目の前で疲れたように頬杖をつき、横顔を向ける悪鬼の腕を取って無理やり振り向かせて、アルベルトは詰め寄った。 その取られた腕を煩わしそうに見やりながら、異形は、淡々と答えた。 「別に。ただ飽いただけだ」 そう。 不意に厭いたのだ。 長すぎる時に。 お前はいずれいなくなる。 お前のおらぬ世界は、さぞかし退屈だろう。 失ってから、どれほど永い時を、生き続けるのか。 お前がおらぬ世界なら、消えてしまえばいい。 そう、おもった。 戯けた世迷言だ。 たかが人間一人を失ったとて、どうだと言うのだ。 なにも変わりはしないだろうに。 なのに、何故それに気付いて、自分はあんなにも動揺した? 何故己はこの腕をふりほどけない? 消えてしまえばいい。 混沌に帰ってしまえばいい。 この個がいない世界ならば、何もなくていいのだ。 (血に染まる喜びすらも、褪せて無くなるだろう) |