枝葉を切り裂き、繁みを掻き分け、奥へ、奥へと走り続ける。

決して出口など無いその森を、もうずっと、逃げ続けている。

 

いつ来るとも知れぬその時を怖れて、恐怖に駆られながら。

 

 

聖なる

怪物の森eden

 

 

「は、ぁっ!!」

どくり、と。心の臓が、ひとつ、大きく脈打った。

大きく見開いた目に映るのは、どことも知れぬ宿の些か古びた様相を見せる木目の天板。

ずるりと、じっとりと汗をかいた身体を引き摺り起こし、ぼんやりとあたりを見回す。眠りに着く前まで酷使された身体は気だるく、秘部はじくじくと熱をもち、どろりと受け止めた男の精を零す。不快さに、妖は眉を顰めた。

ふと、すぐ傍に人の息吹を感じて隣を見下ろせば、血のような赤髪の軍師が規則正しい呼吸を繰り返していた。

その姿に、無防備な事だと鈍く働かぬ頭のどこかで失笑する。

己も軍師も、何一つ纏わぬ姿で床を共にしている。

なぜ、己は剣を身に帯びていないのだろう。

寝台の下には、乱雑に脱ぎ散らかされた衣類と共に剣が放り出されている。

黒い布の間から見え隠れする剣の柄を見据え、しかし異形はそれを手にすることなく再び目線を己の隣で休む軍師に移す。

端整な顔はどこまでも穏やかで、苦悶の影は一つとしてない。

つと、腕を伸ばした。

何を考えたわけでもなく、伸ばした手をその首に絡め、異形は軍師の身体に乗り上げた。

ただ、その安らかな人肌に触れたかったのかもしれない。

それとも、妖の前で警戒さえ無くした男のその息の根を止めたかったのか。

手に、どくどくと流れる血潮の拍動を感じる。

さらりと、解かれていた金の髪が滝のように男に流れ落ちた。

 

「ユーバー」

 

しげしげと悪鬼が金糸が影落とすその顔を眺めていると、男は目を覚まして、まっすぐに異形を見た。

動揺も、畏れも、その碧玉の瞳には浮かんでいない。

ただ、湖沼のように静まり返っている。

 

「ユーバー」

 

再び異形を現す音の羅列を口にして、緩やかに上げた手で男は己の首を締める妖の頬に触れた。

慈しみさえ込められたその慰撫に、込み上げるものなど、知りはしない。

次に寝て目を覚ました時には、きっと記憶の片隅にすら残らないだろう。

だが、今はこんなにもその手の温もりに安堵する。

「ふ…くくく…ははははははっ」

可笑しくて可笑しくて、異形は声を立てて笑った。

決して細くは無い首に掛けた手はそのままに、くぐもった笑いを漏らす異形の身体は、小刻みに震えている。

それを見つめる軍師の顔に、胸に、はたはたと温かな雫が降りそそぐ。

「……泣いているのか?ユーバー」

己を濡らすそれを不思議な面持ちで見やり、身体を起こすと軍師は自分を跨いでいるその妖を引き寄せ、腕の中に閉じ込めた。

後から後から、ただ零れ落ちるその泪は酷く透明だった。

哀しみからでも、歓喜からでもなく、愛しさからでもない。

 

それは、なんの泪だろう。

 

ただ、腕の中の異形がなにかに揺れているのはわかった。

笑いながら泣く異形は、ただ酷く美しい。

それは、嗚咽するような声。

 

異形の脆さを、ただ、愛しいと思う。

 

白いすべらかな頬を流れていく泪を舌で辿り、その目元に幾度も口付けを落とす。

優しい慈雨にも似たそれを甘受して、異形はぼんやりと男の肩越しに見える闇を見た。

 

 

暗く、深い森を

ずっと、逃げ続けている。

 

いつか必ずあの影に捕らえられる日が来るのを、知っているのに。

 

 

 

宥めるように繰り返される口付けに、また一つ、泪が零れた。